最初に声をかけてきたのは葉子の方だった。
俺は新宿駅構内のベンチで、一人で本を読んでいた。
雑踏の中で本を読むのが好きだったのだ。
ふと、立ち止まる人の気配がして顔を上げると、彼女がいた。
正面に立って、上半身を折り曲げるようにしてのぞき込んでいる彼女を、俺は見上げた。
葉子はとびきりの笑顔で俺の顔を確認すると、姉のように隣に腰掛けた。
「何読んでるの?」
顔を寄せて、本をのぞき込みながら、彼女は聞いた。
「マルケス・・・・・」
どきどきしながら、俺は答えた。
たぶん、耳は真っ赤だったはずだ。
「ふうん・・・・・ね・・・知らない人と話すのは嫌い?」
葉子はまた聞いてきた。
俺は、どう答えていいかわからなかった。
黙っていると、彼女は手のひらを外側にして指を組み、伸びをした。
そして、ひとつため息をつくと、ぽつんと言った。
「私ね・・・・たぶん振られたの・・・・」
唐突にそんなことを言われて、何事か言えるほど、俺は女性に慣れていなかった。
「もう2時間、ここにいるのよ・・・・」
俺は顔を上げた。
「コーヒーでも飲む?」
俺は言った。
精一杯気遣ったつもりだった。
ひょとしたら、美人局か・・・とも思ったが、それでもいいと思っていた。
「これ聞いてみて」
葉子は、待ち合わせのホテルのロビーに着いたばかりの俺に、ヘッドフォンを渡してよこした。
サザンの「ミス・ブランニューデイ」だった。
「私のことかな」
彼女は聞いてきた。
「どうしてそう思う?」
なんと答えていいかわからないときは、聞き返すに限る。
女はもう、答えを用意しているからだ。
「私、映画を見るとき、女優の仕草しか見てないの、ストーリーはその仕草の意味を追ってるだけ。結局なんの話かわからないこともあるのよ」
葉子はけらけらと笑った。
驚いた周りの客が、一斉に振り向いた。
と言うより、正面切って見つめるチャンスを待っていたようだ。
視線に気づくと、彼女は少し赤くなって、うつむいた。
「当たり前っていいよね」
ホテルの喫茶室に場所を変え、コーヒーが来てから、葉子は言った。
コーヒーのカップに入れたばかりのシュガーをかき回しながら、彼女は外を見つめていた。
「子供の頃から、ずっと特別だったの、私、中学も、高校も大学も・・・・誰ひとり友達なんていなかったわ」
「そうは見えないよ」
「うそ、顔に書いてある。『そうだろうな』って・・・・」
彼女は言った。
「あなたといると、それが忘れられるのよ・・・・・特に、ベッドの中で・・・・」
俺の反応を確かめるように、視線を俺に戻し、葉子は小さく笑った。
いつも葉子は、シーツの上に、投網を投げたように髪を広げた。
それが一番美しい自分の姿だとわかっているようだった。
俺は死んでいるかのようなその姿を、頭の方から眺めるのが好きだった。
葉子とは、短いつきあいだった。
たいした思い出もない。
好きだの嫌いだのと言うほど、長く会うこともなかった。
間もなく、彼女は何の挨拶もなく、イギリスに行ってしまった。
リバプールからのエア・メールが一通。
葉子が俺の手元に残したのは、それだけだった。
葉子が、テレビのニュースを読んでいるのを見たのは、それから5年後だった。
彼女の髪は短くカットされていた。
俺はどこかへ捨てられたはずの、葉子の豊かな髪の束を想った。
彼女の頭の後から、ばっさり切られたままの髪の束だ。
そして急に、その髪の束が、欲しくなった。
今、どこにあるんだろう・・・・